ピアニスト 一世 オフィシャルサイト
プロフィール
一世の雑感
コンサート情報
一世のレッスン室 -ぴあの羅針盤-
超クラシックピアノ//一世による古今東西ピアニスト資料室
ぴあのさーくるtutti
みなと童謡の会
リンク
資料室
  

   


コルトー,アルフレッド
Cortot,Alfred Denis
1877年9月26日・スイス/ニヨン〜1962年6月15日・スイス/ローザンヌ
 
コルトー,アルフレッド コルトー,アルフレッド

 

パリ音楽院でエミール・デコム(予備科)と、ルイ・ディエメ(高等科)に師事。

1896年(19歳)にショパンのバラード第4番でプルミエ・プリ1等賞を受賞して卒業。

同年から翌1897年までバイロイトに滞在。パリ音楽院在学中からワーグナーの作品に傾倒し、音楽院の先輩エドゥアール・リスレール(1873〜1929年)に従ったもので、リスレーの助手としてバイロイト音楽祭の副指揮者を務めた。

パリに戻ってからは指揮者として活動し、ワーグナーの楽劇『神々の黄昏』のフランス初演を行っている。

1905年(28歳)ヴァイオリニストのジャック・ティボー、チェリストのパブロ・カザルスと伝説的な室内楽トリオ『カザルス・トリオ』を結成。

1907年(30歳)パリ音楽院のピアノ科教授に就任。
しかし「パリ音楽院の教育カリキュラムは、専門楽器(ピアニストならばピアノ)しか出来なくなる視野の狭いエキスパート教育だ」と主張し続け、1919年にパリ音楽院を辞職してしまう。
同年、コルトーの理想とする教育カリキュラムを実現させるべく、オーギュスト・マンジョとともに「エコールノルマル音楽院(Ecole Normale de Musique de Paris)」をパリの中心部に設立。
パブロ・カザルス(チェロ/指揮)、ナディア・ブーランジェ(作曲/ピアノ)、ワンダ・ランドフスカ(ピアノ/チェンバロ)、ポール・デュカ(作曲)、アルチュール・オネゲル(作曲)などの錚々たる顔ぶれの教授陣をそろえて注目された。コルトー自身もピアノコース教授としてディヌ・リパッティサンソン・フランソワ等を育て上げ、朝から精力的に公開レッスンを行った。

また、入学時に年齢制限のあるパリ音楽院に対して、年齢制限を設定せずに個々のレベルに応じたコースに編入させる方式を採用した。(現在でもエコールノルマルには年齢制限はない)

これによってパリ音楽院を卒業した学生が、エコールノルマル音楽院に進学する大学院的な役割も果たせるようになった。パリ音楽院のカリキュラムを単純に批判するだけではなく、善後策を考えて手を打つところがコルトーのバランス感覚だった。年齢制限を設定しなければパリ音楽院を卒業した学生がより高いレベルで研鑽出来る、という考え方だった。

校舎はフランス政府によって【歴史的建造物】(日本の重要文化財に相当)に指定されている。付属のコンサートホールはコルトーを記念して「サル・コルトー」と名付けられている。(ホール設計はパリ・シャンゼリゼ劇場の設計者オーギュスト・ペレ。音響は抜群。)

だが、第二次世界大戦の中で音楽家の弾圧を恐れて時のヴィシー政権と関わりを持った責を問われ、戦後に一時期フランス国内での演奏の機会を完全に奪われるなど楽界から疎んじられたのは不運であった。

1952年(75歳)に初来日。コルトー晩年の円熟の節回しは、当時のライヴ録音(CD有り)で堪能する事が出来る。

 

[一世]


ヘンゼルト,アドルフ・フォン
Henselt,Adolf von
1814年5月12日〜1889年10月10
ヘンゼルト,アドルフ・フォン ヘンゼルト,アドルフ・フォン

 

バイエルン王国シュヴァーバハ出身。ロシア帝国に渡り、現在まで続くロシア・ピアノ楽派の基礎を築いたロシアピアノ界の功労者の一人。


3歳でヴァイオリン、5歳でピアノを始める。バイエルン国王ルートヴィヒ1世より経済的支援を受け、ヴァイマールで数ヶ月間ヨハン・ネポムーク・フンメルに師事。
1832年ウィーンに行き、音楽理論家ジーモン・ゼヒターに作曲を師事。その頃からピアニストとしても頭角を顕し始めている。。

1837年にブレスラウに定住し、ロザリエ・フォーゲルと結婚。翌38年にはペテルブルクに移住、ロシア宮廷付きピアニスト・宮廷音楽教師として実績を積み、1876年、ロシア皇帝によって貴族に列せられた。

アントン・ルービンシュタインの後任としてペテルブルク音楽院の院長を務めたこともある。

ヘンゼルトの演奏の特徴は、フランツ・リストの華やかさと、旧師フンメルのレガート奏法を兼ね備えていたと言われている。カンタービレ奏法では並ぶ者が無いと言われ、かのリストが「ヘンゼルト氏のビロードのような掌が羨ましい」と称賛したという。完成された演奏技巧から、音域の広い和音をつかむことも得意だったが、内声部を際立たせて弾く事にも優れ『3本の腕を持つピアニスト』とも言われた。

しかし、世界一内気なピアニストとも言われ、相当のピアノの名手だった割りには余りコンサートの様子が残されていない。それもそのはずで、ロシアの宮廷に招聘された23〜24の頃は、まだショパンがパリに登場した直後であり、ペテルブルグに定住してからはほとんど一般公演に姿を見せなかったという。

パリの貴族階級達がショパンに注目し始めた頃にパリから消えてしまった事が、ヘンゼルトのコンサートエピソードが少ない理由と言えるかも知れない。ロマン派の作曲家でありながらショパンやリストの影響を殆ど受けていないのも、早くからロシアに定住してしまったためと見られている。

かなり長寿だったが、30代半ば頃までに作曲活動・演奏活動を引退してしまい、指導活動に移行してペテルブルグ音楽院で後進の指導にあたった。

【主な作品】

◆性格的エチュード Op.2
◆12のサロン風エチュード Op.5
◆マイヤーベール『鬼のロベール』の主題による変奏曲 Op.11
◆ピアノ協奏曲 へ短調 Op.16

変奏曲やピアノ協奏曲はマルク・アンドレ・アムランのCDで聴く事が出来る(ハイペリオン/CDA66717)。

[一世]


スクリャービン,アレクサンドル
Aleksandr Nikolayevich Skryabin
1872年1月6日〜1915年4月27日
アレクサンドル・スクリャービン

 

ロシア語表記ではАлександр Скрябинとなるが、本人はフランス語風にAlexandre Scriabineと綴る事も多かった。
英語表記→Alexander Scriabin/ドイツ語表記→Aleksandr Skrjabin
我が国ではスクリャービン/スクリアビン/スクリヤビン等が見られるが、ロシア語発音に最も近いのはスクリャービンである。

帝政ロシア時代のモスクワ出身。
コーニュスからピアノの基礎を習い、次いでズヴェーレフの音楽塾(寄宿学校)を経て、モスクワ音楽院でサフォーノフにピアノを、タネーエフとアレンスキーに作曲を師事。

最初はピアニストとしての名声が高く、各地でコンサート活動をしつつピアノ作品を多数作曲。後援者ベリャーエフの経営する出版社から多数の楽譜が出版された。

1898年から1902年にかけて母校モスクワ音楽院のピアノ科教授を務める。音楽院を退職したあたりから作品に神秘主義傾向を示し、白ミサ、黒ミサなどのピアノソナタに見られる無調性的な音楽スタイルを確立した。

ロシアの伝説的ピアニストのヴラディーミル・ソフロニツキーは娘婿に当たる。
また、ホロヴィッツは少年時代にスクリャービンから激励され、将来の成功を予言されたという。(ホロヴィッツソフロニツキーもスクリャービン演奏では権威と言ってもよいだろう)

スクリャービンの父親はアジア方面に強い外交官。仕事柄自宅を留守にしがちだった。
母親はペテルブルグ音楽院でレシェティツキアントン・ルービンシュタインに師事したピアニストだったが、スクリャービンを産んだ直後に産褥熱で死去し、スクリャービンは叔母によって育てられた。

スクリャービンの生母、リューバ・シチェチーニナ
スクリャービンの生母、リューバ・シチェチーニナ。スクリャービンを産んで間もなく死去した。

スクリャービンの叔母
スクリャービンの叔母。こちらもリューバという名前だった。スクリャービンが最初の結婚をするまでは実母のように彼を育てた。


スクリャービンがピアノを始めたのは早かったが、正規のピアノ教師に師事したのは11歳からであり、意外に遅かった。
叔母リューバがスクリャービンをペテルブルグのアントン・ルービンシュタイン(スクリャービンの生母の師)に合わせた時、「無理に誰かに習わせて型にはめるより、好きなようにピアノに触らせるほうがこの子供のためになる。やがて時期が来たら優れた教師に師事させればよい」と助言したためだった。そのため、スクリャービンはコーニュスに師事するまでの幼少時代の10年間は正式なピアノ教育を受けていない。

しかもコーニュスに師事する前年にスクリャービン自身の志望でロシア帝国陸軍兵学校幼年科に進んでいたから、最初は音楽家志望ではなかった事が推測される。

学科は優秀だったが虚弱体質で小柄であり、軍人養成学校には珍しく音楽的才能に優れ、『君は入る学校を間違えたのではないか』という事で特別にピアノレッスンへの通学が認められた経緯があった。ようするに、軍人向きではないと断を下された訳だ。

幼年学校の思惑を知らずに、スクリャービンは陸軍幼年学校に通いながら、1883年から最初のピアノ教師ゲオルギイ・コニュスのレッスンを受け始める。

84年からはコーニュスのもとを離れ、ズヴェーレフの音楽寄宿学校でラフマニノフらと共に学び、85年からモスクワ音楽院院長タネーエフに理論や作曲を学ぶ。

ズヴェーレフ音楽塾時代のスクリャービン。前列の左。中央はズヴェーレフ。後列右から2番目はラフマニノフ。
ズヴェーレフ音楽塾時代のスクリャービン。前列の左。中央はズヴェーレフ。後列右から2番目はラフマニノフ。


1888年、モスクワ音楽院に入学。ピアノをサフォーノフ、理論や作曲をタネーエフやアレンスキーに師事。
在学中サフォーノフ門下の同級生ヨゼフ・レヴィーンとピアノ演奏技術比べに熱くなり、過激な長時間練習から右手を痛めた時期があったが、ピアノ科は金賞(同期ラフマニノフレヴィーンも金賞を獲得)を得て卒業した。しかし、作曲の師アレンスキーとは相性が悪く、全く評価して貰えずに作曲科は修了出来なかった。これはスクリャービンだけの相性ではなく、ピアノの担当教授サフォーノフがアレンスキーと険悪な関係だった事にも起因していた。

しかし、サフォーノフはスクリャービンを高く評価しており、音楽院ピアノ科教授パーヴェル・シリョーツェル(サフォーノフとは仲が良かった)に「サーシャ(スクリャービンのファーストネームであるアレクサンドルの愛称)は私の宝物」とまで呼んで紹介していた。ちなみにシリョーツェル教授の姪であるタチアナは、後にスクリャービンの2番目の妻となっている。

まだ音楽院在学中だった1891年には、サフォーノフ自身の推薦のおかげでで楽譜出版社を経営するミトロファン・ベリャーエフのサークルの同人となる。

ベリャーエフの出版社から定期的にスクリャービン作品の出版が開始されたのはこの時の知遇からであり、以後ベリャーエフの死去(1903年)まで交流が続いた。

ベリャーエフからは月に100〜200ルーブルの作曲家年金が支給されていたと言われているが、その条件は作曲作品の楽譜を全てベリャーエフ商会に納品する事であった。


1892年5月28日にモスクワ音楽院を卒業したスクリャービンは、その年のうちに正式なデビュー・リサイタルを開催。プログラムひはスクリャービン自身の曲が並んだ。依然として右手には不安が残っていたが、在学中からすでにピアニストとして多数のコンサート経験を積んで実力を認められており、デビュー・リサイタルによって決定的な高評価を得る。

最初の妻 ヴェーラ・イサコーヴィッチ
最初の妻 ヴェーラ・イサコーヴィッチ


1897年、スクリャービンは最初の妻ヴェーラと結婚した。音楽院でシリョーツェルに師事して、金賞でピアノ科を卒業したピアニストである。
叔母リューバはヴェーラが改宗ユダヤ人である事を理由にこの結婚に反対しており、ロシア正教会式(離婚出来ない)ではなく、市民結婚(離婚も出来る)の形式を取るべきだと主張した。

しかしスクリャービンはロシア正教会式の結婚をしたため、二人がクリミアへの新婚旅行に出発した日を最後に、甥スクリャービンに関する叔母リューバの記録は終わっている。

そしてリューバの予感はやがて的中する事になる。

モスクワ音楽院のパーヴェル・シリョーツェル教授が死去したため、この時院長になっていたサフォーノフは後任のピアノ教授としてスクリャービンを推薦した。給料は年俸1200ルーブル。普通に生活するなら20〜30ルーブルで充分だった当時は魅力的な待遇であったが、スクリャービンはこの頃、作曲作品の楽譜が滞りがちでベリャーエフからの生活年金をカットされていて生活に窮していた。サフォーノフが救いの手を差し延べたのであった。
教授に就任した時スクリャービンは26歳。モスクワ音楽院史上、最年少の教授就任であったという。

モスクワ音楽院教授時代(1902年)のスクリャービンと門下生
モスクワ音楽院教授時代(1902年)のスクリャービンと門下生。
左からエサローヴァ、アレクサンドル・ホロヴィッツ(ヴラディーミルとは別人)、ロイコ、スクリャービン、ポメランツェフ、マリノフスカヤ、ネーメヴァ。


指導者としてのスクリャービンはテクニックを訓練するやり方をせず、曲の解釈を伝える指導方法が主だったという。同じ時期にウィーン音楽院から来ていた客員教授がスクリャービンの指導法に感心し、ウィーン音楽院に招こうと画策していた事すらあった。(当然の事としてサフォーノフ院長から拒否されたという)

真面目な門下生からのスクリャービンの評価は大変高かった。門下生のレベルも高く、上掲の写真にもあるポメランツェフやマリノフスカヤ、ネーメヴァは卒業試験で金賞を争うほどの実力であった。

しかし、この時期のモスクワ音楽院はまだ貴族の援助を受けながらの民間運営だった為、裕福な家庭の子女にも門戸を開かねばならず、家は金持ちだが大してピアノが弾けないワガママなお坊っちゃんお嬢ちゃんもかなりの割合で通っていた。

スクリャービン教室にもわずかだが「ワガママお嬢ちゃん」が居て、友人と食事の約束(デート)があった事を理由にレッスンに大遅刻をして来た。一度や二度ではなかったので、ついにスクリャービンは「レッスンと遊びは一緒に考えてはいけない」と注意したところ、その生徒はフテ腐れて教室を出て行き二度とスクリャービン教室に現れなかった。さらにスクリャービン教授の悪口を言いふらしたためにサフォーノフ院長の逆鱗にふれて音楽院を追放された。

このワガママお嬢ちゃんは、チャイコフスキーのパトロンだったフォン・メック夫人の娘である。
ちなみに、フォン・メック夫人の不眠症を治すために誘眠ピアノ演奏で雇われていたドビュッシーにちょっかいを出し、あわれドビュッシーを解雇に追い込んだ「困ったちゃん」もこの娘だった。


そうした例外はあったがスクリャービンの指導実績はかなりのものであった。それでもレッスンや雑務や教授会議などに忙殺されたスクリャービンは次第に消耗し、とうとう音楽院を辞職するに至る。

不運な事に音楽院教授を辞してほどなく、後援者ミトロファン・ベリャーエフがペテルブルグで死去してしまう(1903年12月28日・享年67歳)。
かつてのスクリャービン門下で大富豪に嫁いでいたマルガリータ・モロゾヴァが、夫が死去して遺産が入った事により、恩師スクリャービンに月々200ルーブルの援助を申し出ていた。辛うじて収入源を得たスクリャービンだったが、ベリャーエフの訃報はスクリャービンに精神的打撃を与えた。

この頃、スクリャービンは妻ヴェーラとの間に亀裂が入っていた。
スクリャービンが神秘思想に傾倒し音楽を神秘思想と融合させようと構想していたのに対して、ヴェーラは神秘思想を眉唾モノのオカルティズムと決めつけていたからだった。

一方、シリョーツェル教授の姪タチアナはスクリャービンの思想世界に感激し、スクリャービンの作曲の手伝いをしたいと申し出ていた。スクリャービンからピアノのアドバイスを受けた事もあったタチアナが、尊敬から恋愛感情に変わるのはそう長くはかからなかった。スクリャービンもタチアナなら自分の思想を真面目に聞いてくれる。二人は同じ方向を向いていた。

ロシア正教による結婚では、法律で離婚は認められていなかった。仕方なくスクリャービンはロシア正教会が認めていない「市民結婚」を考えざるを得なかった。まさに叔母リューバの予想が的中したのであった。

1904年、スクリャービンはパリに出る。パリは1900年の万国博覧会でピアノ・リサイタルをしていて、スクリャービンの名はフランス人にお馴染みだった。しかし、実質的にはタチアナと暮らす為のパリ進出であった。
スクリャービンの恩師サフォーノフは、後に新天地アメリカで「正妻はヴェーラであってタチアナではない」と主張している。サフォーノフはヴェーラの事もタチアナの事もよく知っていた。

タチアナ・シリョーツェル
タチアナ・シリョーツェル

1910年に、スクリャービンはピアノロールに録音を残した。この録音は作品8ー12のオクターブ練習曲も含んでいるが、9度が届かない小さな手にしては凄まじいばかりの名演である。ピアニストとしての腕前は全く落ちる事がなく、この時期にベルリン留学から帰国途中に立ち寄ってスクリャービンの実演を聴いた山田耕作は非常に影響を受けている。(この時期の山田作品にはスクリャービンの影響が随所に現れている。)

スクリャービンは音と色彩を対応させたり、色光ピアノを考案したりして、より一層神秘的な世界を追求して行く。神秘思想の頂点となる『インド』の為に、インド旅行を計画していたがその直前に倒れ、1915年4月14日午前8時にモスクワにて死去した。享年43歳。

スクリャービンの臨終を迎えたモスクワの家は、スクリャービン逝去の日で賃貸契約が切れていたという。


スクリャービンの葬儀(1915年4月16日/モスクワ)


柩を担いだ作曲の恩師タネーエフは、葬儀当日の霙まじりの悪天候による寒さにやられて風邪をひき、肺炎を併発して1週間足らずでスクリャービンの後を追った。

同じく柩を担いだ生涯のライバルであるラフマニノフは、スクリャービンと恩師タネーエフに相次いで他界されて精神的にダメージを受けた。


スクリャービンの二人の妻、ヴェーラは1910年にすでに死去しており、1920年にはタチアナが死去している。

[一世]


ゴリデンヴェイゼル,アレクサンドル・ボリソヴィチ
Aleksandr Borisovich Goldenveizer
ロシア語表記:Александр Борисович Гольденвейзер
独語表記:Alexander Borissowitsch Goldenweiser
1875年2月26日・モルダヴィア公国ベッサラビア地方/キシナウ(現モルドバ共和国首都キシニョフ)〜1961年11月26日・旧ソ連/モスクワ)
ゴリデンヴェイゼル,アレクサンドル・ボリソヴィチ ゴリデンヴェイゼル,アレクサンドル・ボリソヴィチ ゴリデンヴェイゼル,アレクサンドル・ボリソヴィチ

 

イグムノフネイガウスと並ぶロシア・ピアノ楽派の最大立役者。モスクワ音楽院付属中央音楽学校の創立に尽力し、ソ連ピアノ教育システムの基礎を築いた名指導者。モスクワ音楽院院長を2度にわたって務めたモスクワ音楽院の「顔」でもあった。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

モスクワ音楽院にて、ピアノをアレクサンドル・ジロティ(Ziloti,Alexander Il'ich 1863年〜1945年)とパヴェル・パブスト(Pabst,Pavel 1854年〜1897年)、作曲をセルゲイ・タネーエフ(Taneyev,Sergei Ivanovich 1856年〜1915年)、アントン・アレンスキー(Arensky,Anton Stepanovich 1861年〜1906年)、イッポリートフ=イヴァーノフ(Ippolitov-Ivanov,Mikhail Mikhailovich 1859年〜1935年)に師事。

1896年(21歳)コンサートデビュー。

1897年(22歳) モスクワ音楽院卒業。

1904年(29歳) モスクワ・フィルハーモニー音楽演劇学校の教授に就任。

1906年(31歳)モスクワ音楽院教授に就任。

1922年(47歳) モスクワ音楽院院長に就任(1924年まで)。

1932年(57歳)モスクワ音楽院付属中央音楽学校の創設に尽力。

1939年(64歳) モスクワ音楽院院長に二度目の就任(1942年まで)。

1940年(65歳) 芸術学博士号を授与される。

1946年(71歳) ソ連人民芸術家称号を授与される。

1958年(83歳) 第1回チャイコフスキー国際コンクール・ピアノ部門の審査委員長を務める。米ソ冷戦時代のソ連をあげての初の国際コンクールであり、国家の威信をかけてソ連から優勝者を出すべく参加者代表を特訓して万全を期していたが、アメリカからの参加者クライバーン(第1位)を公平に評価するという厳正中立な審査態度が光った。

1961年11月26日、モスクワにて逝去。享年86歳。

難曲で知られるスクリャービンの幻想曲を初演し、ピアニストとしての能力も高かった。
遺された映像からは、手や指以外動かさない端正で無駄のない奏法であり、しっかりと芯のある音で落ち着いたテンポの演奏が特徴である。

旧ソ連時代の国営レーベル「メロディア」からリリースされていたスクリャービンの『法悦の詩』『プロメテウス』は同曲の決定盤として評価が高かった。

ゴリデンヴェイゼル,アレクサンドル・ボリソヴィチ
モスクワ音楽院の『ゴリデンヴェイゼル教室』にて。音楽院内で独立したピアノ教室(カフェ・ド・レ)を持つ事が出来る教授は5人と居なかった。

逝去の年まで55年の長きにわたってモスクワ音楽院で指導し、サムイル・フェインベルグ(Feinberg,Samuil Evgenievich 1890年〜1962年)、タチアナ・ニコラーエワ(Nikolayeva,Tatyana 1924年〜1993年)、ラザール・ベルマン(Berman,Lazar Naoumovitch 1930年〜2005年)、ニコライ・カプースチン(Kapustin,Nikolai Girshevich 1937年〜 )を門下から輩出している。

[一世]


ブライロフスキー,アレクサンダー
Brailowsky,Alexander
1896年2月16日・帝政ロシア/キエフ〜1976年4月25日・米ニューヨーク
ブライロフスキー,アレクサンダー ブライロフスキー,アレクサンダー ブライロフスキー夫妻

 

キエフ音楽院在学中に、音楽院視察団の政府派遣員だったラフマニノフに認められる。

1911年(15歳)キエフ音楽院を卒業し、ラフマニノフの薦めでウィーンに留学。レシェティツキ(Leschetizky,Theodor 1830年〜1915年)の門下となる。

1914年の第一次世界大戦の勃発後は戦乱を避けてスイスに移住。当地でブゾーニ(Busoni,Ferruccio 1866年〜1924年)に師事し、個性的な演奏様式によるショパン演奏解釈を知る。

1919年(23歳)大戦終了後フランスに出て、パリ・デビュー。当地でモシュコフスキー(Moszkowski,Moritz 1854年〜1925年)に出会い、親交を結ぶ。また、プランテ(Plante,Francis 1839年〜1934年)のアドバイスも受ける様になった。

1922年(26歳)パリにてショパンコンサートを6夜にわたって開催し、ショパンのエキスパートとしての評価を確立する。

1924年(28歳)アメリカ・デビュー。

1926年(30歳)フランス国籍を取得するが、程なくして渡米しニューヨークに住む。

1928年(32歳)ショパン・ピアノ協奏曲第1番ホ短調Op.11を録音。この曲ではブライロフスキーが世界初録音と言われている。(第2番の世界初録音はマルグリット・ロン

オーケストラはユリウス・プリュヴァー(1874年〜1943年)指揮/ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団。


1932年(36歳)4月、初来日。

1936年(40歳)ベルギーに於いて『アレクサンダー・ブライロフスキー賞』が設立。

ブライロフスキーは米国に於いてショパンの全曲演奏会を行った最初のピアニストであり、最終的にはアメリカの市民権を獲得したものの、ヨーロッパで受けていた評価までは得られなかった。
しかし、ブライロフスキーの独特のピアニズムにも固定ファン層が存在し、ルービンシュタインと同格あるいはそれ以上の評価をする評論家もいた。
ヨーロッパから米国に拠点を移住して、米国の大規模なコンサートホールで演奏する様になって音量を必要としたためにピアニズムが変化したとも言われているが、遺された録音を聴く限りでは繊細なカンタービレが反映されている部分にヨーロッパ時代も米国時代も大差ないと思われる。

ブライロフスキーを見出だしたラフマニノフのピアノ協奏曲第2番にも雄大なスケールの録音を遺しており、この録音の支持者は未だに絶えない。

ショパンのマズルカ全集は、ショパンの同曲の演奏としては画期的な録音とされ、現在でも復刻が繰り返されている。他にもショパンのノクターン全曲集が根強いファンに支えられており、近年エチュード集も復刻された。
リストのハンガリア狂詩曲全集や、シューマンの交響的練習曲などの録音の復刻も待たれているが、SPやLPでの入手が比較的容易なのでレコードで聴く事をお勧めする。ブライロフスキー特有の雰囲気はレコードの方が顕著に感じられるからだ。

[一世]


ドレイショック(ドライショック),アレクサンダー
Dreyschock,Alexander
1818年10月15日・ボヘミア(現チェコ)/ジャーキ 〜1869年4月1日・伊/ヴェネツィア

 

19世紀前半にパリで鎬を削っていた凄腕ピアニストの一人。3度・6度音程の「重音奏法」を得意とし、中でもショパンの『革命のエチュード』の左手部分を全てオクターブで、しかも規定の速度を落とす事なく演奏したという逸話を残している。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

正式にピアノを始めた年齢は不明だが、8歳で楽才に注目されたとあるから、それ以前にはピアノを弾き始めていたと推測される。

1832年(14歳)プラハの音楽学校にてトマーシェク(Tomaschek,Johann Wenzel 1774年〜1850年)にピアノと作曲を師事。

1838年(20歳) 12月、ドイツ北・中部にて最初の公演旅行。

1840年(22歳) ロシアに公演するとともに現地に滞在。

1843年(25歳) フランスのパリにてデビュー。現地で成功して以後、活動拠点をパリとする。

1846年(28歳) 英・ロンドンにてデビュー。同年オランダ、オーストリア、ハンガリーに公演旅行。

1849年(31歳) デンマークおよびスウェーデンに公演旅行。

1862年(44歳) アントン・ルービンシュタイン(Anton Grigoryevich Rubinstein 1829年〜1894年)の招聘を受けて、彼が新設したばかりのペテルブルグ音楽院(現・ロシア国立リムスキー=コルサコフ記念サンクトペテルブルグ音楽院)の教授に就任。

また、ドレイショックのピアノ演奏は宮廷内でめ驚嘆され、「ロシア宮廷付きピアニスト」の称号も獲得。ロシア帝国オペラ学校の校長も兼務するなど、ドレイショックに対するロシア音楽界の評価は極めて高かった。

その半面、厳冬のロシア気候はドレイショックの身体を蝕みはじめる。風邪をこじらせた事がきっかけで肺結核となり、ドレイショックのロシア滞在は6年でピリオドが打たれる。

1868年(40歳) ロシアに於ける全ての職務を辞し、イタリアに転地療養。

1869年4月1日、療養先のヴェネツィアにて結核の悪化により逝去。享年41歳。
遺族の希望により、遺体はドレイショックの故国ボヘミアのプラハに埋葬された。


公演する先々で話題となったのがドレイショックの左手オクターブのテクニックであったという。
1843年のパリ・デビューでは左手だけの演奏のみならず、ショパンのエチュードOp.10ー12『革命』の左手を全てオクターブにして指定速度で弾きこなすという離れ業をやってのけた。
この離れ業はドレイショックの18番であり、ほとんどの公演では必ずプログラムに含めていた。(あるいはアンコールで観客に要求された)

一説によれば、ドレイショックはこの離れ業を身につける為に1日に10時間以上の訓練を自らに課したと言われているが、オーストリア・ハンガリー帝国からパリに留学し、そのまま13歳でパリ・デビューしていた鬼才フランツ・リスト(Liszt,Franz 1811年〜1886年)を始め、後にフランスの市民権を取得した亡命ポーランド人のピアノの詩人・ショパン(Chopin,Frederic Francois 1810年〜1849年)、オーストリア宮廷付ピアニストの称号を得ていたスイス生まれの達人タールベルク(Thalberg,Sigismond 1812年〜1871年)、ドイツのローゼンハイン(Rosenhain,Jacob 1813年〜1884年)、同じくドイツのヘンゼルト(Henselt,Adolf von 1814年〜1889年)、地元パリのアルカン(Alkan,Charles Valentin 1813年〜1888年)等の凄腕ピアニスト達がヨーロッパ各地から集結して鎬を削るパリ楽壇では、自分のみの離れ業を身につけないと生き残れない事をドレイショックは理解していた事だろう。

ロシアに招聘されてペテルブルグ音楽院や宮廷ピアニストになる等、ヘンゼルトと同じような道を歩んだが、ロシアの寒さはドレイショックの身体には相性が悪く、結果的にドレイショックの致命傷となった結核に罹患する事になったのは何とも不運であった。

[一世]


ジロティ,アレクサンドル
Ziloti,Alexander
1863年10月9日 ハリコフ近郊〜1945年12月8日ニューヨーク
ジロティ,アレクサンドル ジロティ,アレクサンドル モスクワ時代 ジロティ,アレクサンドル

 

シロティと誤記(誤読)される事が多いが、ジロティのロシア語表記は「Зилоти」である。ロシア文字「З」はZの発音に近く、間違ってもSの発音にはならない。したがってジロティもしくはズィロティ(ズィローティ)と表記されなければならない。これは本人がドイツ語表記(Siloti)を好んだため、それが英語・フランス語読みでシロティと誤発音されたのが原因ともいわれる。

1871年からモスクワ音楽院でニコライ・ズヴェーレフに師事。1875年からニコライ・ルビンシュタイン、セルゲイ・タネーエフ、チャイコフスキー、フーベルトらに師事。ピアノ科卒業の際は金メダルを獲得した。
1883〜86年までリストに師事。ライプツィヒ・リスト協会の共同設立者に名を連ねる。
1883年11月19日に演奏家として正式デビュー。
1887年に母校モスクワ音楽院で教壇に立ち、アレクサンドル・ゴリデンヴェイゼル、レオニード・マクシモフ、コンスタンティン・イグムノフセルゲイ・ラフマニノフ(ジロティの従弟に当たる)など、現代に繋がるロシア・ピアニズムの源流を輩出した。

チャイコフスキー作品の校訂もこの頃行っていて、ピアノ協奏曲第1・第2番の校訂はジロティ自身優れたピアニストだった事もあって評価が高く、チャイコフスキー自身の意見も最大限に尊重された信頼性の高いものとなっている。

しかし、モスクワ音楽院教授としての教育活動に忙殺されて演奏家としての危機感を感じ、周囲の強い慰留にもかかわらずモスクワ音楽院を辞したのは1891年5月。翌1892年から1900年まで、欧州を中心に演奏活動を展開。1898年のボストン、シンシナティ、シカゴでの公演では従弟ラフマニノフの『前奏曲・嬰ハ短調』を広く紹介・演奏したという。これは後に米国でのラフマニノフの演奏活動に際して良い影響を遺している事から、ジロティの慧眼が並のものではなかった事が推察される。

ジロティの演奏はシリンダー(蝋管)録音がわずかに残されていて、主観に走らない端正で誠実な演奏だった事は窺える。録音再生状態に限界があるので音色や打鍵のメリハリは残念ながら判らない。しかし、シリンダー再生演奏からでも、後のLPで聴いてみたいと思う気品が漂う。秀れた編曲家でもあり、バッハ作品を始めとする多数の独奏・デュオ(2台4手)編曲を遺している。

人間的には包容力とともに人望があり、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番のモスクワ初演の際は、オーケストラの指揮を担当して独奏者ラフマニノフ(自演)を支え、オーケストラ合わせの練習からラフマニノフを励まし続けたという。交響曲第1番初演の失敗(と本人が思っていただけで、評価した人は多かった)で極度の精神衰弱に陥っていたラフマニノフにとっては、暗示療法を施してくれた精神科医ニコライ・ダール博士、指揮者あるいは作品の最大理解者として激励を続けたジロティの二人は大恩人であったろう。

ラフマニノフの例に限らず、ジロティの庇護によって伸びていった若手音楽家は多く、彼らが後のロシア音楽史を支える軸になった事を考えれば、ジロティの功績は計り知れないと言う事が出来る。

[一世]


ユニンスキー,アレクサンドル
Uninsky,Alexander
1910年2月15日・帝政ロシア/キエフ〜1972年12月19・米テキサス州ダラス

ロシア語表記 Юнинский,Александр

※ 後に米国市民権を得て米国を中心に活躍したため、アレクサンダー・ウニンスキーの発音表記も見られるが、本編では出身国ロシアや基礎教育を受けた亡命先のフランス式に発音した『アレクサンドル・ユニンスキー』と表記した。

 

1932年の第2回ショパン国際コンクール第1位。第2位となったイムレ・ウンガール(ハンガリー)とは本選で同点だった為に『公平を期す』という理由でコイントスで優勝が決められ、その結果ユニンスキー第1位・ウンガール第2位という釈然としない審査方法に論議が紛糾した。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

キエフ音楽院でセルゲイ・タルノフスキーに師事。

1923年(13歳)ロシア革命による混乱から逃れるため、家族と共にフランスに亡命。

パリ音楽院に入学し、イシドール・フィリップラザール・レヴィに師事。音楽院卒業時はプルミエ・プリ(1等賞)。

1932年(22歳) 第2回ショパン国際ピアノ・コンクールにて第1位とマズルカ賞を獲得。フランス国籍を取得していなかった為、無国籍(亡命ロシア人)としてエントリーした。

第二次世界大戦中は南米に避難。

1943年(33歳) 米国の市民権を獲得。以後は全米およびカナダにて演奏活動を行う。

1955年(45歳) カナダのトロント音楽院教授に就任。拠点をカナダに移す。

晩年は米国テキサス州ダラスの南メソディスト大学で教授を務めた。

1972年12月19日・米テキサス州ダラス市内にて逝去。享年62歳。

オランダ・フィリップスに多数のショパン録音の他、ムソルグスキー『展覧会の絵』等も録音している。

端正で切れ味鋭い中にも特有のユニンスキー節ともいうべき個性が光り、鋼鉄のような強音と絹のヴェールのような繊細な弱音を併せ持ったピアノを聴かせている。

ショパン・エチュード集はユニンスキーの再評価に繋がる出来映え。CDに近年復刻されているが、幾分テンポを落として巧みなフレージング処理をしたかと思えは、粘っこい入魂の音楽を聴かせたり…といった具合で、ピアノ表現の可能性を様々に追究して盛り込んだエチュード集に仕上がっていて一聴の価値がある。

ショパン国際ピアノ・コンクール史上(2008年までの時点において)、フランス系のピアニストで第1位を確得したのはユニンスキーただ一人である。
フィリップレヴィというパリ音楽院の誇る名教授2人にみっちり仕込まれた事もあっただろうが、何よりもユニンスキーのピアニズムがショパンの音楽と相性がよかった点が勝因だったのかも知れない。

[一世]

<番外編>
コイントスで第1位を決定した方法への疑問……第2回ショパン国際ピアノ・コンクール


ヴェデルニコフ,アナトリー
Vedernikov,Anatoly
1920年5月5日・満州/ハルビン(現・中国/哈爾濱市)〜1993年7月29日・旧ソ連/モスクワ
ヴェデルニコフ,アナトリー ヴェデルニコフ,アナトリー ヴェデルニコフ,アナトリー

 

ロシア語表記,Анатори Бэдэрников

ロシア革命の混乱からハルビンに逃れたロシア人の両親のもとに生まれる。

6歳でピアノを始める。当直に居たピアノ教師ヴェラ・ディロンに師事。ディロンはヴェデルニコフの素質に注目し、レッスン代を受け取らなかったばかりか楽譜まで与え、各地に彼を積極的に紹介した。

1930年(10歳)師ディロンの計らいで当地にてコンサートデビュー。天才少年として話題になり、上海など他都市でも公演する。

1933年(13歳)ハルビン市内のハルビン高等音楽院を首席で卒業。

1935年(15歳)初来日。アレクサンダー・モギレフスキー指揮の新交響楽団(現・NHK交響楽団)と共演。翌年まで東京に滞在し、レオ・シロタに師事。
レオ・シロタから、米国フィラデルフィアのカーティス音楽院でヨゼフ・ホフマンに師事するか、あるいはモスクワ音楽院のゲンリッヒ・ネイガウスに師事するか、どちらかを薦められる。父親は望郷の念からモスクワを選択する(結果としてこれが後で裏目に出て悲劇を招く)。

1936年(16歳)家族と共に旧ソ連・モスクワに移住。モスクワ音楽院に入学し、ゲンリヒ・ネイガウスに師事。

音楽院入学直後、ヴェデルニコフ一家にソ連当局から危険因子の嫌疑がかれられて両親がスパイ容疑で逮捕され、父親は銃殺刑、母親は7年間の強制収容所送りとなるが、師ネイガウスの計らいと人脈でアナトリー本人だけは何とか逮捕を免れる。

1940年(20歳)モスクワにてコンサートデビュー。

シェーンベルグやヒンデミット等の前衛作曲家を積極的に演奏したため反体制因子の烙印を捺され、旧ソ連国内のみに公演が制限されて外国公演を封じられた。しかし、プロコフィエフショスタコーヴィッチとは厚い信頼関係で結ばれ、ショスタコーヴィッチのピアノ・ソナタ第1番の録音やプロコフィエフのピアノソナタ第5番の初演など、旧ソ連を代表する作曲家の作品を多数手掛ける。

1959年(39歳)モスクワ市内のグネーシン音楽院(現・グネーシン音楽教育大学)の教官となる。

1980年(60歳)モスクワ音楽院の教官となる。

1985年(65歳)モスクワ音楽院の教授に昇格。同年に旧ソ連最後の書記長に就任したゴルバチョフのペレストロイカ政策により、ヴェデルニコフの西側諸国への公演が可能になる。

1993年(72歳)3月10日、ピンネベルクにおける最後のリサイタル。

1993年7月29日、モスクワ市内にて死去。享年73歳。


西側には名前ぐらいしか聞こえず、ソフロニツキースタニスラフ・ネイガウスと同様『鉄のカーテンの向こう側にいる幻の達人』と呼ばれていた。リヒテルギレリスとほぼ同世代で同じゲンリッヒ・ネイガウス門下だが、実力はリヒテルよりも上だったと言われている。

私も晩年の実演を何度も聴いたが、とんでもない境地に達したピアニストで驚いた記憶がある。残念ながら私がモスクワ音楽院留学中の1993年に逝去されてしまったが、この年に来日(…50数年ぶり!)する計画があったらしい。惜しかった!

音楽院では真面目で誠実な指導者だという教授会内の人物評価があるが、レッスンでもコンサートでも妥協をしない事では女流ヴィルサラーゼ教授と二枚看板といわれた頑固一徹教授でもあった。

旧メロディア盤のヴェデルニコフのバッハ・パルティータ(LP)
旧メロディア盤のヴェデルニコフのバッハ・パルティータ(LP)。

バッハやベートーヴェンの解釈には定評があり、最近は復刻が相次いでいる。
公演活動を制限されていた為に意図的に録音を数多く残しているが、自身の境遇を反映したかのような「背後に絶望感を漂わせた」音楽を聴かせるかと思えば、フランス物では絶妙な色彩感を醸し出したりとピアニストとしての「引き出し」は豊富だったのではないかと思う。それだけに、聴き手の好みや趣向によって様々な印象を受けるピアニストではないかと思われるが、ヴェデルニコフが途方もないセンスと実力を持っていた事には異論の余地はないだろう。

旧ソ連時代の不当な弾圧を受けなければ、もっと早くに西側諸国の称賛を勝ち得たピアニストだったかも知れない。

[一世]


マルモンテル,アントワーヌ=フランソワ
Marmontel,Antoine-Francois
1816年7月16日・仏クレルモン(クレモン)=フェラン〜1898年1月16日・パリ
マルモンテルアントワーヌ=フランソワ マルモンテルアントワーヌ=フランソワ

 

パリ音楽院にてジンメルマンにピアノを師事。

1832年(16歳)パリ音楽院ピアノ科でプルミエ・プリ(1等賞)を獲得。

1835年(19歳)作曲科(対位法とフーガ)で2等賞を獲得。

1837年(21歳)パリ音楽院ソルフェージュ科の教官に就任。

1846年(30歳)ソルフェージュ科に続いてピアノ科の教官(非常勤)を兼務。同年にジンメルマンの退職に伴って後任教授に昇格。同門のアルカンはジンメルマンの後任を希望していたが果たせなかった。これはマルモンテルがすでに音楽院内で教官として実績を積んでいた事や、マルモンテルの指導者としての評価が高かった事が関係している。そして、その評価にたがわぬ錚々たる門下を送り出した。

マルモンテルの門下からはビゼー(Bizet,Georges 1838年〜1875年)、後にマルモンテルの後任教授となるディエメ(Diemer,Louis 1843年〜1919年)の他、ラヴィニャック(Lavignac,Albert 1846年〜1916年)、パリ・スコラ・カントルム音楽学校の創始者の一人ヴァンサン・ダンディ(d'indy,Paul Marie Theodore Vincent 1851年〜1931年)、ドビュッシー(Debussy,Claude Achille 1862年〜1918年)、ピエルネ(Pierne,Henri Constant Gabriel 1863年〜1937年)らが巣立った。

アメリカ出身のマクダウェル(MacDowell,Edward Alexander 1860年・ニューヨーク〜1908年)もごく短期間パリ音楽院でマルモンテルに師事している。(フランス語や生活文化に馴染めず、すぐに転校したという)

作曲家や指導者として大成した門下が多いのはマルモンテル自身が作曲科の教官出身で、200曲に及ぶピアノソナタ、300曲に及ぶピアノ編曲作品を書く等作曲家としても当時知られていた事も少なからず影響していると思われる。

1887年(51歳)健康上の理由と激務からパリ音楽院を退職。(門下のディエメが後任に昇格)

ピアニスト・作曲家・教育家・指揮者と多方面に音楽家を輩出したのはフランス学派ではマルモンテルが筆頭ではないかと思われる。ジンメルマン⇒マルモンテル⇒ディエメコルトーリパッティフランソワと連なる系譜は、マルモンテルとディエメによって完成・発展した。

[一世]


ルービンシュタイン,アントン
Anton Grigoryevich Rubinstein
1829年11月28日〜1894年11月20日

 

ロシア・ピアノ流派の開祖と言える存在で、ピアニスト史上最初に名声を得たロシア人。フランツ・リストと人気をニ分した時期もあった。

現在のモルドバ共和国に属するポドリスク地方ヴィフヴァチネツ(Вихватинец(Выхватинец), 現ルブニツァ近郊に生まれ、5歳の時に父親の鉛筆製造会社設立のためにモスクワに移る。最初は母親、次いでアレクサンドル・ヴィロインク(ジョン・フィールドの孫弟子)にピアノを師事。

1859年にロシア音楽協会を設立し、1862年にはロシア初の音楽教育機関であるペテルブルク音楽院(後に地名変更によってペトログラード音楽院、レニングラード音楽院と名称が替わり、現在はサンクト・ペテルブルグ音楽院に落ち着いた)を創設した。

西欧の音楽文化を積極的に採り入れ、逆にロシア国民的な音楽を標榜する5人組(バラキレフ、キュイ、ボロディン、ムソルグスキー、リムスキー=コルサコフ)と対極の存在であった。

しかし、ペテルブルグ音楽院ピアノ科に当代きっての名ピアノ教師テオドール・レシェティツキーを招聘したり、宮廷付きピアニストのヘンゼルトを招聘したりと優秀な人材を次々に確保して音楽院のレベルアップをはかった点は、かなりの先見の明の持主だったと言える。

弟のニコライ・ルービンシュタインはモスクワ音楽院の創設者でピアニスト。

アントンは残念ながら演奏を録音に遺さなかった。シリンダー録音に「肉声」を録音していて(チャイコフスキーの肉声も入っている)、何とも惜しい事だ。肉声よりピアノをせめてシリンダーかピアノロールに録音してくれていたら‥と思うのは私だけだろうか。

同時代のオイゲン・ダルベールの様に「録音技術」を信用していなかったのかも知れないが、真偽のほどはわからない。

アントン・ルービンシュタインの門下には、ヨゼフ・ホフマンヨゼフ・レヴィーンフェリックス・ブルーメンフェリト(キエフ音楽院時代のホロヴィッツの師)が居る。

作曲作品には5曲のピアノ協奏曲の他、「天使の夢」「へ調のメロディー」その他の多数のピアノ作品、交響曲などがある。ピアノ作品は最近全貌が明らかにされて再評価が高まりつつある。

[一世]


フリードハイム,アルトゥール
Friedheim,Arthur
1859年10月26日帝政ロシア・ペテルブルグ〜1932年10月19日アメリカ・ニューヨーク
フリードハイム,アルトゥール フリードハイム,アルトゥール

 

コンサートデビューは9歳と伝えられる。最初の師はカール・ジーゲ。14〜17歳の頃にはジーゲの紹介で、アントン・ルービンシュタイン(ジーゲの師)に師事。
ペテルブルグ大学に進み哲学を専攻。その後ワイマールに行き、リストに師事した。

リストアントン・ルービンシュタインの演奏スタイルを評価しておらず、フリードハイムがその弟子だったという事で最初はフリードハイムに入門を許さなかったが、自作のピアノ曲(協奏曲とも小品集とも言われている)をリストに聴いてもらう機会を得てようやく入門を認められた経緯があった。

リストは亡くなるまでの5年と数カ月フリードハイムを指導し、カール・タウジッヒオイゲン・ダルベールと並べてフリードハイムを称賛した。

ロンドンでも名ピアニスト兼指揮者として人気を得ているが、晩年はアメリカを拠点とし、亡くなる直前まで指導活動に重点を置いたという。

演奏は過剰な主観的表現をせず、端正に音楽を作りあげて真正面から解釈を行う。ニンバスから出ているピアノロール録音(1917〜26年録音)の復刻CDではリスト・ハンガリア狂詩曲や、パガニーニ大練習曲第1番・第3番(ラ・カンパネラ)、二つの伝説、ゴットシャルクのバンジョー、自作曲パピヨンなどを弾いている。
テンポは速めで細部に気配りと抑制の利いた演奏であり、後のリパッティを予感させる気品に満ちていて、アントン・ルービンシュタイン門下とは思えないものである。一説によれば、気まぐれに近いアントンのレッスンにフリードハイムは困惑していたとも伝えられているから、アントンからいかなるピアニズムを受け継いだのかは不明である。

晩年のリストはフリードハイムの実演奏を聴いて驚嘆し、同時に「激烈な演奏で知られたアントン・ルービンシュタインの弟子だった」という先入観で最初に入門を拒否した事を後悔したという。
しかし、19世紀の二大ヴィルトゥオーゾであるリストアントン・ルービンシュタインの両方に師事出来たのはフリードハイムただ一人である。

[一世]


ベネデッティ=ミケランジェリ,アルトゥーロ
Benedetti = Michelangeli,Arturo
1920年1月5日・イタリア/ブレシャ〜1995年6月12日・スイス/ルガーノ

ベネデッティ=ミケランジェリ,アルトゥーロ ベネデッティ=ミケランジェリ,アルトゥーロ ベネデッティ=ミケランジェリ,アルトゥーロ

 

アッシジの聖フランチェスコの末裔とされる家に生まれる。3歳から音楽教育を受け、最初はヴァイオリン、次いでピアノを学ぶ。

1930年(10歳)でミラノ・ヴェルディ音楽院に入学し、ジュゼッペ・アンフォッシに師事。

1938年(18歳)ベルギーのブリュッセル国際イザイ・コンクール(現・エリザベート王妃国際コンクール)に参加し、第7位入賞。この時優勝したのはソ連のエミール・ギレリス(1916〜1985年)で、第2位に英国の「女神」モーラ・リンパニー(1915〜2005年)、第3位にソ連のヤコブ・フリエール(1912〜1977年)…という具合に大変な顔ぶれの並ぶコンクールだったが、その中で後に世界的ピアニストとして最も成功したミケランジェリが第7位だったというのが興味深い。コンクールの受賞順位が必ずしも後の成功の順を暗示するとは限らないという例だろうか。


1939年(19歳)ジュネーヴ国際音楽コンクール・ピアノ部門第1位。この時の審査委員長アルフレッド・コルトーは「フランツ・リストの再来」と激賞した。

第二次世界大戦では空軍パイロットとして従軍したが、ファシズムに対抗する闘士として知られていた。従軍中に腕を負傷し、その後遺症による腕の不調からコンディションに対して極度に神経質になる。
後年のコンサート・キャンセル伝説は単なる奇行ではなく、この後遺症に対する恐怖感と神経質なまでの完全主義に起因したという説もある。筆者(一世)もそう考える。

ミケランジェリはピアニストの他、医師(父親の意向で、一時期医学を勉強していた)やパイロットの肩書きもあり、レーサーとしての経験も持つ。料理の腕はプロ級と言われ、スキーの名手でもあった。ピアニストとしての枠におさまらないキャラクターだった。

一時期「卓球」にのめり込み、レッスンそっちのけで弟子達に対戦相手を命じた事もあったという。(ちなみに犠牲者の一人にマルタ・アルゲリッチがいる。)

公演にはミケランジェリの繊細なタッチに合わせたピアノを持ち込み、絶大な信頼をおいていた調律師・タローネ氏を必ず同行させた。

かと思えば、日本人調律師の村上輝久氏の腕前に感激し、欧州に1年間の滞在予定だった村上氏を4年間も拘束したばかりか、親友のピアニスト、ホセ・セケイラ・コスタの自宅に村上氏を派遣して『自宅調律』をプレゼントしたりした。(日本人調律師のレベルの高さを欧州で認識させるきっかけを作ったミケランジェリの功績は大きい。)

自宅のピアノで練習する時はアップライトで、しかもマフラーペダル(3本のうちの真ん中の弱音ペダル。アップライトのみの機能)を使って練習していたらしい。聴力を護るためだと言う。

楽器としてのピアノに関するミケランジェリの感覚は異常なまでに鋭敏であり、「弾いていて、どうもいつもとタッチが違う感じがする」とミケランジェリが主張するので、調律師がピアノのアクションを色々調べてみたところ、弦に当たるハンマーのフェルト部分に一粒の砂(?)が付着していたとか、あるいは「響き具合がいつもと違う」と指摘し、調べてみるとピアノの響板に小さな虫が一匹落ちていた…等。

来日中のミケランジェリのピアノを触った事のある関係者によれば、鍵盤は極度に軽く、そして浅く感じられたそうだ。
ミケランジェリの「鍵盤に手を密着する」奏法には適していたのかも知れない。(同じ奏法の先駆者フェルッチョ・ブゾーニも軽いタッチのピアノを好んだと言われている。)

世界の主要なコンクールを歴任したが、1955年の第5回ショパン国際コンクールの審査員を務めた時は、第2位になったヴラディーミル・アシュケナージの優勝を主張して抗議し、賞状への審査員のサインを拒否して帰国してしまったエピソードはあまねく有名。

1993年5月7日・ドイツ・ハンブルグに於ける公演が実質的な最後の公演となった。

[一世]


ルービンシュタイン,アルトゥール
Rubinstein,Arthur
1887年1月28日
ポーランド/ウッジ〜1982年12月20日スイス/ジュネーブ

ルービンシュタイン,アルトゥール ルービンシュタイン,アルトゥール

 

ロシアのルービンシュタイン兄弟(兄アントン/弟ニコライ)とは血縁上の関係は無い。


何歳でピアノを始めたかは不明だが、最初はワルシャワでピアノを習い、次いでベルリンに移住した際にカール・ハインリッヒ・バルト(リスト門下)に師事した。

1898年(11歳)ベルリンにてコンサートデビュー。ヨアヒム指揮の下、モーツァルトのピアノ協奏曲第23番を演奏。
1904年(17歳)パリにてサン=サーンスやポール・デュカス、ラヴェル、ヴァイオリンのジャック・ティボーと会う。

第5回アントン・ルービンシュタイン国際ピアノコンクールで優勝。
時のロシア帝国政府のユダヤ人差別政策(例えば、ユダヤ人は首都ペテルブルグに24時間以上滞在してはならない…等)があったため、賞金や副賞のコンサート契約を貰う事が出来ず、第1位の賞状と記念品しか授与されなかった。

1906年(19歳)アメリカデビュー(ニューヨーク/カーネギー・ホール)。ミスタッチが多く、評論家から批判が集中した事により、4年間隠退して基礎練習とレパートリーの拡大につとめ、再びステージに戻った時は評価が一変した。特にスペイン公演では熱狂的に支持され、公演回数の延長が提示された。

1912年(25歳)英国ロンドンにてデビュー。以来、第一次世界大戦中は主にロンドンに定住し、ヴァイオリン奏者のイザイ(Ysaye,Eugene-Auguste 1858・ベルギー/リエージュ〜1931年)の伴奏者を務める。

1916年(29歳)、スペインや南米各地を公演。同時代のスペインの作曲家の新作を初演。

1932年(45歳)指揮者エミル・ムリナルスキの娘アニエラと結婚。同年、二度目の隠退。数年かけて演奏技巧やレパートリーの改善に取り組む。自宅のガレージにアップライトピアノを搬入して練習に没頭したという。

1935年(48歳)初来日。

1939年(52歳)アメリカに公演滞在中に第2次世界大戦が勃発。そのままアメリカに留まり、語学力を活かして連合軍の通訳等で協力した。

ルービンシュタイン,アルトゥール

1946年(59歳)アメリカ合衆国の市民権を取得。以後、ニューヨークとパリに邸宅を構え、ヨーロッパとアメリカの両大陸で演奏活動を展開する。

1960年(73歳)ワルシャワに於いて第6回ショパン国際ピアノコンクール審査委員長。優勝したマウリツィオ・ポリーニ(1942年イタリア〜)を評して『ここに居る全員(審査員)の誰よりも上手い』と激賞した。

1964年(77歳)病床にある親友ゲンリッヒ・ネイガウスをモスクワ病院に見舞う。(この年10月10日にネイガウス逝去。享年76歳)

ネイガウスを見舞うルービンシュタイン
ネイガウスを見舞うルービンシュタイン)

1966年(79歳)2度目の来日。

1976年(89歳)視界の中央付近に黒点が見える視力障害(加齢黄斑変性症)のため演奏活動から引退。

1980年(93歳)第10回ショパン国際ピアノコンクールにて名誉審査委員長に就任するも、視力障害の進行と健康的理由によりワルシャワ入り出来ず。

1982年(95歳)スイス/ジュネーブの自宅にて逝去。

逝去2ヶ月前のアルトゥール・ルービンシュタイン
(逝去2ヶ月前のアルトゥール・ルービンシュタイン)

[一世]


シュナーベル,アルトゥール
Schnabel,Artur
1882年4月17日・オーストリア領ガリチア/クンツェンドルフ(現ポーランド/リプニク)〜1951年8月15日・スイス/アクセンシュタイン
シュナーベル,アルトゥール シュナーベル,アルトゥール

 

ウィーンにてモーツァルト・ピアノ協奏曲第20番のデビューで認められて、レシェティツキに師事し、一時助手も務める。

1900年(18歳)ウィーンからベルリンに移住。後の夫人となるアルト歌手のテレーゼ・ベーアと出会い、彼女の伴奏ピアニストとして活躍。

1912年(30歳)ヴァイオリニストのカール・フレッシュと室内楽で共演したのをきっかけとしてアンサンブルピアニストとして評価も高める。

1921年(39歳)アメリカデビュー。その頃から指揮者フルトヴェングラーとの共演を重ねる。

1925年(43歳)ベルリン音楽大学教授に就任。

1927年(45歳)ベルリンにてベートーヴェンのピアノ・ソナタ全曲連続演奏会(7日間)を開催。以降ウィーン、ロンドン、ニューヨークでも全曲連続演奏会を開催。ベートーヴェンのエキスパートとしての評価を確立する。

1932年(50歳)世界初のベートーヴェンのピアノソナタ全集とピアノ協奏曲全集(サージェント指揮)のレコーディングを開始。使用ピアノはベヒシュタイン。

1933年(51歳)ナチスの台頭を避けてスイスに逃れる。

1938年(56歳)ベートーヴェン「ピアノソナタ全集」と「ピアノ協奏曲全集」を完結。同年、米国に移住。

1944年(62歳)米国の市民権を獲得。以後はニューヨークに居住。
第二次世界大戦後も米国とヨーロッパで公演や録音を続ける。

1951年8月15日、スイスにて逝去。享年69歳。

シュナーベル版ベートーヴェン・ピアノソナタ全集の楽譜は伝統的なベートーヴェン解釈を詳細に記載したもので、現在でも世界的に使用されている。また、モーツァルトのピアノ・ソナタの演奏・録音にも定評があった。

しかし、何と云っても世界初でベートーヴェンのピアノソナタ全集とピアノ協奏曲全集をリリースした偉業が光る。
78rpmによるシュナーベルのこの偉業はSP盤で80数枚組(後の復刻LP盤でも12枚組)というとてつもないもので、大変な高額だったにもかかわらず欧米ではそこそこの売れ行きだったという。第二次大戦が無ければ更に一般的に普及していたかも知れない。セットではなくバラで販売した国もあったらしいが詳細は不明。都内の中古レコード専門店ではシュナーベルのベートーヴェン盤SPがバラ売りで見かける事がある(かなりの高値が付けられている)ので、日本ではセットではなくても購入出来るルートもあったのかも知れない。

余り一般に知られていないが作曲もしていて、ベートーヴェンのエキスパートによる作曲作品とは思えない12音技法による前衛的ピアノ作品を残している。(※CDとして発売されている。)


シュナーベルの代表的な門下にはクリフォード・カーゾン(Curzon,Clifford Michael 1907年〜1982年)、リリー・クラウス(Kraus,Lili 1903年〜1986年)、レオン・フライシャー(Fleisher,Leon 1928年7月23日・米カリフォルニア州サンフランシスコ生まれ〜)、ウワディスワフ・シュピルマン(Szpilman,Wladyslaw 1911年〜2000年)がいる。

[一世]


モイセイヴィッチ,ベンノ
Moiseiwitsch,Benno
1890年2月22日・帝政ロシア(現ウクライナ)/オデッサ〜1963年4月9日・英ロンドン
※モイセイヴィチとも表記される。
モイセイヴィッチ,ベンノ モイセイヴィッチ,ベンノ モイセイヴィッチ,ベンノ

 

ロシア語表記:Бенно Моисеевич


オデッサ王立音楽院でクリモフに師事。

1899年(9歳)オデッサ音楽院でアントン・ルービンシュタイン賞を受賞。

1904年(14歳)ウィーンに渡りレシェティツキ(Leschetizky,Theodor 1830年〜1915年)に師事。

1908年(18歳)英国のレディングでコンサートデビュー。

1909年(19歳)英国ロンドンにデビュー。現地でラフマニノフ(Rachmaninov,Sergey Vasilievich 1873年〜1943年)と知り合い、以後は生涯にわたる交友を持つ。

1919年(29歳)米国にデビュー。
帝政ロシア崩壊の事もあって故郷オデッサには帰らず、以後は英国に定住しながら数度に及ぶ米国公演のほか、南米各国、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ等を巡演。

1927年(37歳)初来日。

1928年(38歳)再来日。

1933(43歳)3度目の来日。

1937年(47歳)正式に英国に帰化。

1946年(56歳)英国王室より叙勲。

1959年(69歳)最後の来日。

19世紀生まれのピアニストで、録音の多さはモイセイヴィッチは群を抜く。親友ラフマニノフのピアノ協奏曲の名録音をはじめ、ベートーヴェンからプロコフィエフまで幅広いレパートリーを誇った。切味抜群のパッセージや鮮やかな左手オクターヴ奏法が有名だが、当時米国で支持されていたヨゼフ・ホフマンアルトゥール・ルービンシュタインとは異なったタイプのピアニズムでファンを獲得した。

ラフマニノフ・ピアノ協奏曲第2番のモイセイヴィッチは、ラフマニノフ自演の録音と異なった演奏を聴かせる。
第一楽章第2主題(83小節からのピアノ独奏部分)のモイセイヴィッチは、繊細にして甘美なタッチで同時代の他のピアニストの誰とも異なる魅力を見せる。それでいて冷静であり感傷的には陥らない所がモイセイヴィッチの持味として今日でもファンが絶えない理由であろう。
177小節からの真珠を転がすようなタッチは、モイセイヴィッチの持味であり、ショパンやシューマンの作品でも堪能する事が出来る。

モイセイヴィッチのベートーヴェン「悲愴」「月光」「ワルトシュタイン」
モイセイヴィッチのベートーヴェン「悲愴」「月光」「ワルトシュタイン」。
(Great Pianists・Moiseiwitsch 9/NAXOS 8.111115)


ロマン派作品の演奏で評価されているが、ベートーヴェンも聴きごたえがある。「悲愴」第二楽章の優美な音色は現在でも色褪せる事はない。アルトゥール・シュナーベルエリー・ナイに共通する歌心は、レシェティツキ門下の共通点だろうか。
「月光」の第三楽章の右手パッセージは、軽やかに弾かれている様で実は陰影に細心の注意を払って演奏されている。
トニックとドミナントではタッチそのものをコントロールして、トニックではやや暗めに、ドミナントでは若干明るめに調整している。こうした対比はレシェティツキ系のピアニストの弾く「月光」では多く見られるが、モイセイヴィッチは際立って精妙に弾き分けている。
「ワルトシュタイン」は第一楽章の冒頭が暁→曙→日の出……と移り変わるような壮大な雰囲気を感じる。スタッカートによる同一和音の連打だけに、相当なタッチコントロールと集中力・平常心が要求される部分である。ワルトシュタインの難しさは、第一楽章の冒頭にあるのではないかと思うが、完璧にコントロールされたモイセイヴィッチの「ワルトシュタイン」は一聴の価値がある。最終楽章の壮大なピアニズムがとりわけ評価が高いが、その予感は第一楽章冒頭で十分に予感出来る。この一枚だけでも、一時代を築いたモイセイヴィッチのスケールを存分に楽しむ事が出来る。

[一世]


バルトーク,ベーラ・ヴィクトル・ヤノシュ
Bartok,Bela Viktor Janos
1881年3月25日・ハンガリー領トランシルヴァニア/ナジセントミクローシュ〜1945年9月26日・米ニューヨーク
バルトーク,ベーラ・ヴィクトル・ヤノシュ バルトーク,ベーラ・ヴィクトル・ヤノシュ バルトーク,ベーラ・ヴィクトル・ヤノシュ

 

最初は母親のパウラ(ピアノ教師)にピアノの手ほどきを受ける。父親(農業学校の校長)はバルトークが7歳の時に病没している。

1891年(10歳)コンサートデビュー。

1898年(17歳)ウィーン音楽院に入学。

1899年(18歳)親友だったエルンスト・フォン・ドホナーニと共にブダペスト王立音楽院に入学。

1902年(21歳)交響詩『コシュート』を作曲。リヒャルト・シュトラウスの交響詩『ツァラトゥストラはかく語りき』に強い影響を受けて作曲されたもの。

1904年(23歳)初めてマジャール民謡に触れる。後のピアノ曲集『ミクロコスモス』や『ピアノメソッド』の素材になる。

1905年(24歳)パリで開催された第4回アントン・ルービンシュタイン国際コンクールにピアノ部門と作曲部門で出場。作曲部門では入賞せず、ピアノ部門で第2位受賞。この時の第1位はヴィルヘルム・バックハウスだった。

バルトークはこの時ピアノ部門で優勝出来なかった事を終生の痛恨事と考えていたが、ドビュッシー等のフランス近代音楽に遭遇出来た事は収穫であった。(ハンガリー国内ではフランス近代音楽は知りようもなく、パリならではの貴重な体験であった。)

1906年(25歳)コダーイと出会う。コダーイと共にハンガリー各地の民族音楽を集め、この年から体系的資料の作成に没頭する。

1907年(26歳)ブダペスト音楽院ピアノ科教授に就任。
この頃からハンガリー民謡のピアノ編曲を行う。

1909年(28歳)ツィグレル・マールタ(Ziegler Marta)と結婚。

1910年(29歳)長男ベーラ(バルトークJr)誕生。この年、フレデリック・ディーリアスと知り合っている。

1911年(30歳)唯一のオペラ作品『青ひげ公の城』をハンガリー芸術委員会に演奏拒絶される。

1914年(33歳)第一次世界大戦の勃発により、民謡の収集活動を一時中断。バレエ音楽『かかし王子』に着手(1916年完成)。

1915年(34歳)弦楽四重奏曲・第2番に着手(1917年完成)。

1918年(37歳)『かかし王子』『青ひげ公の城』の初演が相次いで成功。国際的な評価を得る。
メニヘールトの台本によるパントマイム用音楽『中国の不思議な役人』の作曲に着手。

1923年(42歳)ハンガリー政府からの委嘱による、ブダペスト市政50年祭用の『舞踏組曲』を作曲。

同年再婚。相手はピアノの門下生であったパーストリ・ディッタ。翌年に次男ペーテルが誕生。ペーテルは後に父親の録音に技師として貢献し、父親の楽譜の校訂者としても優れた功績を残している。

1926年(45歳)にピアノ・ソナタ、ピアノ協奏曲第1番を発表。


1929年(48歳)米国やソ連へ演奏旅行。ヴァイオリンのヨゼフ・シゲティ、チェロのパブロ・カザルスらと共演。

1930年(49歳)ピアノ協奏曲第2番を作曲。

1940年(59歳)10月、ブダペストにて告別コンサート開催。
直後米国に移住。
コロンビア大学で民俗音楽の研究に没頭する。

1943年(62歳)白血病と診断され、入院。

同年8月15日から10月8日にかけて作曲されたバルトーク晩年の最高傑作『管弦楽の為の協奏曲』は、ボストン交響楽団の音楽監督だった指揮者セルゲイ・クーセヴィッキーが、自身の音楽監督就任20周年記念と夫人ナターリア追憶作品として、クーセヴィッキー財団からバルトークに委嘱…という表向きの理由があるが、実際には米国に来てから極貧になり、100ドルの薬代すら払えなかったバルトークを救済するために、彼の真価を理解するクーセヴィッキーが当時破格の委嘱料(1000米ドルの小切手)を携えて、入院中のバルトークの病室を訪れて実現したものだった。
※クーセヴィッキー指揮による初演(1944年)は、NAXOS「ヒストリカル・シリーズ」にて復刻されている。

1944年(63歳)メニューインの依頼による『無伴奏ヴァイオリンソナタ』を作曲。メニューイン自身による初演に立ち会う。

1945年、『ピアノ協奏曲第3番』の残り17小節のオーケストレーションを残し、9月26日ニューヨークのブルックリン病院で白血病にて逝去。享年64歳。

遺体は1988年7月7日故郷ハンガリーに移送され、国葬によりブダペストにて埋葬された。
最初に埋葬されていたニューヨークのファーンクリフ墓地には記念碑が残された。

バルトークには作曲の門下はおらず、全てピアノの門下生だけだったらしい。
ピアノ以外では、ヴァイオリンの弦をつまみ上げて指板にぶつけるようなピツィカート奏法(通称バルトーク・ピツィカート…ただし、バルトーク以前にもあった奏法。)を好んで作品に採用した事でも知られている。

また、自然界に存在する黄金比率を実際に音楽に利用し、黄金比を生み出す「フィボナッチ数列(1、2、3、5、8、13・・・)」を音程に適用した。バルトークの独特な音楽はこうした特殊な作曲技法や、永年研究して来た民俗音楽からの調性等が反映されている。


民俗音楽の録音音源を聴きながら五線紙に採譜するバルトーク。民俗音楽研究はハンガリー国内に留まらず、アフリカのアルジェリア取材にまで及ぶ徹底したものだった。

[一世]


ヨハネス・ブラームス
Brahms,Johannes
1833年5月7日・独/ハンブルク〜1897年4月3日・オーストリア/ウィーン
ブラームス,ヨハネス ブラームス,ヨハネス ブラームス,ヨハネス

 

父親ヤーコプは当地の楽団のコントラバス奏者。

1839年(6歳)父親ヤーコプから音楽の手ほどきを受ける。

1840年(7歳)父親の手引きにより、ハンブルク市内のピアノ教師コッセル(O.Cossel 1813年〜1865年)に師事。正式なピアノ教育はおそらくこの時点がスタートだと推測される。

1843年(10歳)父親ヤーコプ主催の演奏会にて初の公開演奏。

同年、コッセルの紹介により、コッセルの師でピアニスト兼作曲家のマルクスゼン(Marxsen,Edward 1806年〜1887年)にピアノと作曲法を師事。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンの作品研究・分析、リズム感の訓練、ピアノ演奏の徹底した基礎訓練などをマルクスゼンから受ける。ブラームスの生涯にわたる伝統的ドイツ様式の作風は、この頃の基礎教育で形成された。

1845年(12歳)マルクスゼンによる指導に作曲理論が加わる。この年から作曲作品が生まれているが、後年ブラームス本人が「未熟作品」として破棄した為、19歳以前の作品・楽譜は現存していない。

1846年(13歳)
レストランや酒場、ダンスホール等のピアノ奏者を務め、家計を助ける。

1847年(14歳)
ヴィンゼンにて初の指揮を経験。当地の男声合唱団の合唱指導だった。丁寧なアドバイスに加えて真面目かつ礼儀正しいブラームスに好感が集まり、翌年夏の合唱指導も依頼される。

1848年(15歳)3月、ハンブルクのフィルハーモニー協会の公演でヨアヒム(Joachim,Joseph 1831年〜1907年)のヴァイオリンを聴く。生涯親交を持つヨアヒムをこのコンサートで知る。(この時点でヨアヒムと接触はない)

同年夏、ヴィンゼンで合唱指導。

同年9月21日、ハンブルクに於いて初のリサイタルを開催。

1849年(16歳)4月14日、2回目のリサイタルを開催。

1850年(17歳)
3月、ハンブルクのフィルハーモニー公演にてクララ・シューマンのピアノ(ロベルト・シューマン指揮)を聴く。

同年、ヴァイオリニストのレメーニ(Remenyi,Eduard 1830年〜1898年)と知り合い、意気投合する。

1851年(18歳)スケルツォOp.4を作曲。
1852年(19歳)
ピアノ・ソナタ第2番Op.2作曲。

1853年(20歳)4月、レメーニとコンサートツアー。ツアー中にレメーニによってヴァイオリニストのヨアヒムを正式に紹介される。

同年6月、ワイマールのフランツ・リストを訪問。

同年9月、ヨアヒムの紹介によりデュッセルドルフのシューマン夫妻と会う。ロベルト・シューマンはブラームスの自作演奏(ピアノ・ソナタ第1番Op.1やスケルツォOp.4)に感激する。

10月、ロベルト・シューマンは『音楽新報』(10月28日付)に「Neue Bahnen(新たなる道)」と題して投稿し、ブラームスを『天才』として紹介。

同年11月、ライプツィヒの出版社ブライトコプフ・ウント・ヘルテル社と契約。

出版に向けてピアノ・ソナタ第1番Op.1を改訂。
ピアノ・ソナタ第3番Op.5完成。

1854年(21歳)1月、ハンス・フォン・ビューローと知り合う。ビューローは後にブラームス派の重鎮として彼を擁護し、作品を演奏してブラームスの名を広める等の功績をあげる事になる。

同年2月27日、ブラームスの音楽出版界進出のきっかけを作った恩人ロベルト・シューマンが、躁鬱病による異常行動で雨中のライン川に投身。(自殺未遂とされているが、躁状態から来る衝動説も指摘されていて自殺未遂とは断定できないという。)

精神病院に収容され、家族との面会すら禁止されたロベルト・シューマンを気遣い、6人の子供を抱えてさらに妊娠中だったロベルトの妻クララを助ける為に、シューマン家の兄貴分のように子供達の面倒を見るようになり、やがてクララと亡くなるまて続く強い信頼関係が出来上がる。

この年は、シューマンの主題による変奏曲Op.9やバラードOp.10が作曲された。

1855年(22歳)後年ブラームスの支持者となる音楽評論家ハンスリック(Hanslick,Eduard 1825年〜1904年)、新進バリトン歌手のシュトックハウゼンと知り合う。

1856年(23歳)7月29日、収容先の病院にてロベルト・シューマン逝去。享年46歳。

1857年(24歳)9月、独・デットモルトの宮廷音楽家となる。

1858年(25歳)夏、避暑を兼ねてゲッティンゲンに滞在。
ソプラノ歌手アガーテ・フォン・シーボルトと出会い、やがて婚約指輪を交わす程の熱烈な恋愛関係に発展する。

同年秋にデットモルトに戻り、ピアノ協奏曲第1番Op.15を完成させる。

1859年(26歳)前年に完成したピアノ協奏曲第1番Op.15を初演。ブラームス自身のピアノによるものだったが評価は余り芳しいものではなく、ブラームス本人を落胆させる。
アガーテと破局し、婚約解消。

同年3月より、ハンブルク女声合唱団の指導。
秋にデットモルトで勤務。

1860年(27歳)ワイマールのリストを旗手とする新ドイツ・ロマン主義(新ドイツ楽派)に対する宣言文に署名。

1861年(28歳)ヘンデルの主題による変奏曲とフーガOp.24、ピアノ四重奏曲第1番Op.25、同第2番Op.26を作曲。

1862年(29歳)9月、ウィーンに移住。
同年11月29日、当地にて初公演。

1863年(30歳)1月6日のウィーン公演を大御所評論家ハンスリックに激賞される。

同年9月、ウィーン・ジングアカデミー合唱団の指揮者に就任。(翌年4月に辞任)

パガニーニの主題による変奏曲Op.35作曲。

1864年(31歳)10月、生涯の親友となるウィンナ・ワルツの作曲家ヨハン・シュトラウス2世(Strauss II,Johann 1825年〜1899年)と会う。

左:ヨハン・シュトラウス2世/右:ブラームス
左:ヨハン・シュトラウス2世/右:ブラームス

1865年(32歳)
2月2日、母親クリスティアーネ逝去。享年76歳

外科医テオドール・ビルロート(Billroth,Christian Albert Theodor 1829年〜1894年/後にウィーン大学医学部教授/1881年世界初の胃の切除術に成功し、術式に今日も名前を残す)と知り合う。

1868年(35歳)4月、独・ブレーメンにてドイツ・レクイエムOp.45を初演して大成功。これがきっかけとなり、大家・巨匠作曲家として認識されるようになる。

同年、ハンガリー舞曲集第1・2巻を作曲。

1879年(46歳)ブレスラウ大学より名誉博士号を授与される。
同年2つのラプソディーOp.79作曲。

1880年(47歳)ブレスラウ大学に大学祝典序曲Op.80を献呈。

同年5月、ボンで開催されたロベルト・シューマン記念祭に参加。

同年、ハンガリー舞曲集第3・4巻を作曲。

1881年(48歳)夏にウィーン郊外の村プレスバウムで作曲に専念し、ピアノ協奏曲第2番Op.83他を作曲。

1882年(49歳)ビューロー率いるマイニンゲン管弦楽団の公演ツアーに同行。

1887年(54歳)1月らプロイセンから功労勲章を授与される。

1889年(56歳)自作の演奏活動最後の年。
同年ハンブルク市より名誉市民権を授与される。

1894年(61歳)親交のあった外科医ビルロート博士が逝去。逝去直前の手紙のやりとりが夫人の癇に障っていた為、夫人によって葬儀参列を拒否され、柩を参道で見送る。後年ビルロート博士の作曲作品をブラームスが出版を奨めたが、ビルロートの未亡人の意向に反してブラームスが校訂をしたため、未亡人が出版を拒否。大作曲家ブラームスが校訂者とならなければ、アマチュア作品を出版してくれる出版社など無い事を、未亡人は理解出来ていなかった。(未亡人はブラームスの死後に出版社を廻ったが、どの出版社からも相手にされず門前払いとなっている)

1895年(62歳)
3月、ウィーン楽友協会音楽院の50周年記念公演にて、自作の『大学祝典序曲』を指揮。(ウィーンに於けるブラームス最後の指揮)

同年5月、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフより大勲章を授与される。

1896年(63歳)1月、ベルリンにて自作の『大学祝典序曲』およびピアノ協奏曲第1番・第2番を指揮。

同年3月26日、親友クララ・シューマンが脳卒中にて倒れる。

同年5月20日、クララ・シューマン逝去。享年75歳。
最後の作品となった『オルガンの為の11のコラール前奏曲』Op.122を作曲。

同年夏から極端な疲労を感じるようになり、カールスバートに滞在して鉱泉飲用療法を受け、10月ウィーンに戻る。

1897年(64歳)2月、死期を悟って正式な遺言書を作成し、財産管理人を任命。

同年3月7日、自作品を聴く最後の演奏会に出席し、交響曲第4番を聴く。(ハンス・リヒター指揮ウィーン・フィルハーモニー交響楽団)
直後から床を離れられなくなる。

同年4月3日(午前8時30分)、昏睡状態のまま永眠。享年64歳。死因は父親ヤーコプと同じく肝臓癌であった。

同年4月6日、ウィーン中央墓地に埋葬。

[一世]

<番外編>
交響曲作曲家としてのブラームス


ミクリ,カロル(カール)
Mikuli(Miculi), Carol(Carl)
1819年10月20日/オーストリア・ハンガリー帝国分割統治時代のブコヴィナ・チェルニョフツェ 〜1897年5月21日/オーストリア・ハンガリー帝国分割統治時代のレンベルク(現ウクライナ/リヴィウ)

※ポーランド語表記ではカロル・ミクリ(Mikuli,Karol)がドイツ語風の表記で知られている。
ミクリ,カロル(カール)

 

ポーランド(当時はオーストリア・ハンガリー帝国分割統治時代)のピアニスト・指揮者・作曲家・音楽教師。ショパンの数少ない直弟子の一人。ショパンの校訂譜全集(ミクリ版)を作成した事でも知られている。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

1844年(25歳)ショパンに師事する事を目的としてパリに出る。
ショパンのスケルツォ第2番Op.31を弾いてショパンに認められ、入門を許される。

また、同年12月にショパンの門下生となったテレフセン(Tellefsen,Thomas Dyke Aclando 1823年〜1874年/ノルウェーのピアニスト。2年半待ち続けてショパンに入門を許された)とともに、ショパンの紹介を得てルベールに作曲法のレッスンも受け始める。

ミクリはテレフセンとともにショパンの自筆楽譜の写譜係を務めているから、ショパンの信頼は厚かったと考えられる。

ミクリは、ショパンの他の門下生レッスンを助手として聴講する許可すら与えられており、この時のメモは後にショパンの校訂楽譜全集を出版する際に役立てられる。

1848年(29歳)2月、『二月革命』が勃発し、動乱のためショパンのレッスンが中断を余儀なくされる。

1849年(30歳)10月17日、パリ・ヴァンドーム広場12番地のアパートにて、師・ショパン逝去。享年39歳。
マドレーヌ寺院におけるショパンの葬儀に関係者として携わる。

1858年(39歳)レンベルク(現ウクライナ/リヴィウ)のガリシアン音楽協会附属音楽院の院長に就任。ピアノ科、和声学、対位法、楽式論の教授を兼務。

1880年(61歳)1月、ショパン楽譜全集(ミクリ版)の編纂・校訂譜を出版。
フランス初版をベースにし、ミクリ自身がショパンから直接受けたレッスンの指示・レッスン時のショパンによる楽譜への書き込み、ミクリ以外の門下生がショパンのレッスンを受講している時のミクリの聴講メモが活用された。

1887年(68歳)、ガリシアン音楽協会附属音楽院を退職。

1895年(76歳) 米国に於いてショパンの楽譜全集を出版(ミクリ米国版)。

1897年5月21日、レンベルクの自宅にて逝去。享年78歳。

門下生にはモーリッツ・ローゼンタール(Rosenthal,Moriz 1862年〜1946年)やラウル・コチャルスキ(Koczalski,Armand Georg Raoul von 1884年〜1948年)が居る。
また、ホルショフスキーの母親もミクリ門下であった。

[一世]


シューマン,クララ・ヨゼフィーネ
Schumann,Clara Josephine
1819年9月13日・ドイツ/ライプツィヒ〜1896年5月20日・ドイツ/フランクフルト

 

父親はピアノ教師フリードリヒ・ヴィーク(Wieck,Friedrich 1785年〜1873年/ロベルト・シューマンやハンス・フォン・ビューローの師)。母親はピアニスト兼声楽家で、父親ヴィークの最初の妻だったマリアンヌ(Marianne 1797年〜1872年)。


1824年(5歳)父親ヴィークにより、正式なピアノレッスンが開始される。数ヶ月前から母親マリアンネにピアノの手ほどきを受けていたが、マリアンネが同年5月12日にヴィーク家を去った(後に離婚した)ため、正式なレッスンはクララが